Thursday, 29 March 2012

「瓜二つ」を探せ!—インパクト評価とは2(開発学:其の四)

・・・さて、インパクト評価についての続編です。
前回をご覧になっていない方がいらっしゃいましたら、
どうぞそちらを先にお読みいただければと思います。

毎朝5km走るという行為が私に与えるダイエット効果について
どうやってそれを検証するか、という話だったと思います。

インパクト評価は、ここで薬学の世界の考え方を応用します。
どこからから(←実はここが問題です)私のそっくりさんを見つけてきて、
私と全く同じ生活をさせます。但し、朝のマラソンを除いて。

つまり、完全理想的なモデルとしては、こういうことです。
彼女と私は同じ年齢で、同じ身長、同じ体重、同じ新陳代謝。
私と同じ数の階段を上がり、同じ量の論文を読み、
私と同じように暴飲暴食していただきます。
ただし、私だけが早起きをして、毎朝5km走らなければなりません。

その6ヶ月後に、二人にどのような違いが起こっているかを調べるのです。

非常に恐ろしい表現なので、教科書には決して書かれませんが、
まさに、実験室のマウスと同じ考え方ですね。ふふふ。
全く同じ環境で育てられたマウス2匹。
その1匹にだけ、特別な化学物質を投与し、どのような変化が起こるかを検証する。。。

それを現実の世界で行うというのが、インパクト評価の考え方です。

でも、もちろんこれには明らかに倫理的な問題があります。
実際に、私のそっくりさんを「強制的に」私と同じ生活を送らせるというわけには
今日の人権尊重論から許されるはずもありません。

というわけで、
どうやってそっくりさんを見つけるか
が、インパクト評価の鍵になります。
ちなみに、この「瓜二つ」(今回も苦しい理由付け)のそっくりさんのことを
「Comparison Group」とか「Control group」といって
私本人のことを「Treatment group」と呼びます。

Groupというには複数人の集団と言うことになります。
実際に5kmのマラソンが全人類のダイエット効果があるかどうかは、
もっともっとたくさんの人で試してみないと解りません。
これは、朝マラソンが私に減量効果を引き起こしたという因果関係
(=Causality, Interbal validity)とは別に
それがどれだけ一般化できるか( = Genaralisation, External validity)という問題が
あるからです。
だから、大抵の場合は1人を調べるのでは無くて、
たくさんの人の変化を調べてその平均を「プロジェクトの効果」と考えます。

このTreatmentという呼び方に、抵抗を覚える方もいるそうですが、
薬学実験から来ている考え方とすれば、まあ仕方ないかなと私は思っています。

この「そっくりさん」の見つけるには、統計学・計量経済学の手法を使います。
一番良いと言われているのは「ランダム化」という手法で
同じ母集団から無作為にTreatment groupとControl groupに参加者を割り当てる
というやり方です。
また、そっくりさんを見つけるのでは無く、
重回帰分析や交差項・道具的変数を利用した回帰分析の方法で、
プロジェクトの成果を計算する手法もあります。

でも、これ以上書くと読んでいて頭が痛くなるので、省略します。
興味のある方がいれば、もちろん喜んでお話しします^^



●インパクト評価の問題点

ここまでインパクト評価の基本的な考え方について説明してきました。
コンセプトとしては難しくないし、
なによりプロジェクトの効果を精緻に研究しよう!というと
非常に聞こえが良いので、誰も反対しないのでは?と思うかもしれません。

でも、いくつか問題点があると思っています。

1.お金がかかる
すでに説明したように、研究の成果を一般化するには、
たくさんの実験サンプルが必要になります。
一般的な量的インパクト評価では、このサンプル数が50より小さいと
あまり相手にされないように思います。
ということになると、色々な人に協力してもらわなければならないので、
当然お金もかかります。

また、ダイエットが終わってから評価するのでは無くて、
ダイエットを始める前からそっくりさんを見つけておかなければならないので、
相当な「仕込み」も必要になります。


全く根拠の無い憶測ですが、最近世界銀行なんかがやっている評価プロジェクトは
数百万円はくだらないのではないでしょうか。
もちろん、超一流のエコノミストを雇っているので、人件費もかかります。


その評価にかかるコストって、誰が負担するのでしょうか?
評価にかかるお金で救えるかもしれないの命よりも、
その研究が人類の発展にとって重要と言えるのでしょうか?



2.すべてのプロジェクトを評価できるわけでは無い
インパクト評価の考え方は、すべての開発援助プロジェクトの評価に
通用するわけではありません。

例えば、緊急援助。大地震が起こった国に対して援助をする際、
「援助をしなかったらどうなるか」を調べるために、
ある地域にだけ支援物資を送り、ある地域には支援をせず、
生存者の違いを調べる・・・・なんてこと、できるわけありません!

上記の例は、開発援助というよりは緊急人道支援に関するものですが、
他にも、国家全体のマクロ経済政策などを評価するには向いていません。
一方で、特定の地域にターゲットを絞った保健プロジェクトや、教育プロジェクト、
貧困削減プロジェクトの評価には、一定の成果が上がっているようです。



3.プロジェクトのための評価?評価のためのプロジェクト?
新薬の開発では、実験はあくまで実用化が目的であり、
その効果を精緻に測定することが最重要な課題となります。

一方で、開発援助プロジェクトは、ぶっつけ本番、ってことがたくさんあります。
そいういったときに、評価のためにあれこれと仕込みをしたり、
膨大な費用をかけたりするのは、そのプロジェクトに参加する人にとって、
本当に良いことなのでしょうか。

もちろん、開発プロジェクトにも「パイロットプロジェクト」的なものはあり、
ある特定の地域で試行的に実施してみて、うまくいけばそれをもっと広い地域に展開する、
良い成果が得られなければ、内容を修正する、といったことがあります。


でも、パイロットプロジェクトにしても、
そこに参加している人はまさに実社会に生きている人々であり、
実験室のマウスではありません。
仮にそのプロジェクトがかなり悪い結果をもたらしたりした場合、
彼らに対してどのような償いをすれば良いのでしょうか?

インパクト評価は、常にこうした倫理的な問題を考えなければ行けません。
まさに人体実験や、クローン実験と同じような問題を潜在的に持っているのです。

4.近視眼的になりがち
ある世界銀行の人が発表した論文で、学校の先生の欠勤率を減らすために、
「毎朝学校に来たら先生の顔写真を撮らせ出勤の証拠にする、欠勤が多い場合は減給する」
という実験を行った結果、ものすごい良い効果があった!というものがありました。

確かに、それによって先生の出席率はあがるかもしれません。
でも、あからさまに「あなたのことを信用していません」と言われているようで、
先生にとって決して気持ちの良い職場環境じゃないですよね。
そんな束縛感と強制感の元で、生徒に良い授業が出来るでしょうか?

そもそもは、先生の出席率をあげることが目的では無く、
生徒がよりよく勉強できる環境を作ることがゴールなのでは無いでしょうか・・・。

また、ある援助を実施して、その効果が出てくるのには、
ある程度の長い時間がかかる場合もあると思います。
それでも、最近は早く論文を書くため、早く成果を報告するために、
プロジェクト実施から評価までのタイミングが非常に短くなっているという問題も
あります。

例えばマイクロファイナンス(貧困層、特に女性にビジネスのための小口融資をすること)の
有効性について、最近アカデミック的に大きな議論になっており、
多くの研究論文が発表されています。
それらの多くは、マイクロファイナンス融資開始後、1〜2年後の
利用者の生活の変化に注目したものがほとんどです。

しかし、融資をしてから、ビジネスが成功し、収入が向上し、女性の社会的地位が向上し、
子どもの栄養状態が改善し、学校にきちんといけるようになるまでにどれだけの時間が
かかるでしょうか?

ビジネスの世界では、創業して最初3〜4年赤字は当たり前なんて議論も
よく聞きますよね。
1〜2年での変化が重要ではないとは言いませんが、
もっと長期的な視点で援助の有効性を考えるという観点が
最近の評価業界の潮流では、薄れているように感じています。




* * * *


というわけで、インパクト評価についてがーーーーっと書いてきました。
まだまだ書きたい内容はたくさんありますが、今日はこの辺で。
一部、難しい内容や英語が多くなってしまいすみません。

かなり長い内容になってしまいましたが、
最後までお読みいただき、ありがとうございました。





論より証拠?—インパクト評価とは1(開発学:其の参)

いよいよ大学院での勉強も最終局面に。
明日は春学期最後の授業。そして残るエッセイは二つ。


そんなところで、やっと私がこ8ヶ月あまり勉強してきたテーマについて
書きたいと思います。(今日はなぜか敬体文で書きます)


すなわち、開発業界における「Impact Evaluation」についてです。
●「Evidence Based Policy」 に対する要求の高まり


前の回で、最近の開発業界で「Evidence Based Policy」(根拠に基づいた政策)に
対する要求が高まっていると書きました。


平たく言うと、これまでの援助業界では、
あるときは援助する側(特に西洋)の価値観の押しつけであったり、
あるときは熱意やプロセス重視の姿勢が強かったりして(結果より気持ちが大事!みたいな)、
その援助プロジェクトがどれだけ有効性があったかということが
あまり精緻に評価されてこなかったのでは無いかという反省があるそうです。


ちなみに、JICAの英国事務所長が講演で仰っていましたが、
こうした批判は、欧米の開発関係者の中で特に強いそうなのですが、
これは、これまで彼らが莫大な金額の援助をしてきたアフリカ諸国で
なかなか思ったような成果が生まれないということに対する疑問から生まれたそうです。


それで、もっとプロジェクトの有効性を客観的に評価する手法について
もっと考えようという議論が高まってきたのです。
まさに「論より証拠」、あれこれと論理や理屈や「べき」論を述べるより、
本当にその援助が効果があるのか、証拠を出そうじゃないかということです。
(無理矢理ことわざと結びつけたな・・・感が否めないこの回)


そして、その証拠に基づいて、より効果的な政策を立案しよう、となるわけですね〜。
なんだか当たり前じゃないの?と思う人も多いでしょうが、
援助業界でこういった話題が高まってきたのは、2000年以降だそうですよ。


● Impact Evaluation インパクト評価とは
さて、で、本題の「インパクト評価」です。


これまでの説明で、だいたいの人は
「プロジェクトの効果(インパクト)を評価するんだな」ということは
お察しがつくと思いますが、
大事なポイントは、それはこれまでの評価と何が違うのか、ということです。


当然ですが、今までも「プロジェクトの評価」というのは行われてきました。
しかしそれは、「プロジェクトが最初に設定した目標に対してどれだけ達成できたか」を
評価するものでした。(これを事業評価Operational Evaluationと言います)


それに対して、ここがミソなのですが、
インパクト評価は
このプログラムが無かったら何が起こっていたかということを想像し
「プログラムの起こった状態(事実)」と「起こっていない状態(反事実)」を比較して、
プログラムの有効性を考えるという点で、前者と決定的に異なります。


例を挙げましょう。
私がダイエットをしようと決心しました。目標は現状の—5kg。
それで、毎朝5km走ることにしました。
それを6ヶ月繰り返し、結果、なんと、—7kgの減量に成功したとします。
これを「事業評価的に」単純に評価するとすれば、
目標−5kgに対して結果が−7kgですから、当初の目標よりさらに2kgの減量に成功、
朝のマラソンは効果大!ということになりますね。


でも、この成果をすべて朝の5kmのおかげだと言えるでしょうか??


答えは恐らくNOです。
もちろん、 毎朝5kmの効果は多少あったでしょう。そう思いたいです。
しかし、他にも体重を減らす要因があったかもしれません。
例えば、減量を意識している私は、食事制限をしたり、
普段の生活の中でエレベーターより階段を使おうとしたり、
その他の減量活動を行っている可能性があるからです。
あるいは、勉強によるストレスでやせ衰えたのかもしれません(これは可能性大です)。
だとすれば、マラソン効果を−7kgとするのは、効果を過大評価していることになります。


一方で、実は朝の5kmは本当はもっと効果があったのかもしれません。
私はイギリスに来て、脂っこいフィッシュアンドチップスや安いビールを飲んでいて、
クリスマス、お正月とたらふく食べ、逆に太る要因があったのかもしれません。
にも関わらず7kgの減量に成功したとすれば、その暴飲暴食が無ければ
10kgくらいやせていたかもしれません!
だとすれば、マラソン効果−7kgというのは、効果を過小評価していることになりますね。


・・・ということを考えると、
純粋にダイエットプロジェクトの効果だけをに抽出するのは、決行至難の業です。


先程説明したインパクト評価の考え方では
「朝の5kmがなければ、私の体重はどうなっていたんだろう?(反事実)」を考え、
「毎朝走った私」と「走らなかった私」を比較する、ということになります。
でも、、、、現実には「走った私」しか存在しません。


あなたなら、どうやってこの問題を解きますか?


・・・ここから先、まだまだ長くなりそうなので、
続きは次の回で書きます。





Friday, 23 March 2012

授人以魚不如授人以漁—魚の釣り方は世界共通か?開発学(其の弐)

期末の課題に追われていて更新が少し遅れましたが、引き続き開発学について。


「飢えた人に魚を与えるより、魚の釣り方を教えてあげなさい」


ビジネス書などでも良くでてくるこの言葉、いったいどこの言葉なんだろうかと
調べてみたが、これまたいろんな意見が。
最も有力と思われるのは、タイトルの通り、古代中国の思想家老子の言葉という説。


「授人以魚 不如授人以漁」
人に授けるに魚を以ってするは、人に授けるに漁を以ってするに如かず。


一方で、ユダヤの諺だとか、アフリカの諺だとかいう説もあるようだった。
要は、良い諺は世界によく広まると言うことなんだろう。


意味はその言葉通りなのだが、この言葉、開発の哲学でも良く引用されることがある。


飢えや貧困で苦しんでいる人々に、食料や物資をただ与えるだけでは
彼らの援助に対する依存度を高め、結果的に悪循環をもたらす。
むしろ、自立・発展の道筋を示すことが重要である。という解釈になるだろうか。


これは当然、一理ある。
「援助漬け」「援助立国」というのはよく聞く話で、
他国からの援助に頼って国民を喰わせている国家は、とてもサステナブルとは言えない。


ただ、ここで浮かぶ一つの疑問、そして開発分野の中で議論を呼んでいるのは、


「魚の釣り方は世界共通か?」


北海道の氷の張った湖でワカサギ釣りをしている人が、
南アメリカのアマゾンでどうやって魚を釣るか、現地の人に指導できるのか?


ちょっと極端な例過ぎるが、そんなの無理だと誰でも解るだろう。


にもかかわらず、過去の多くの途上国開発において、
「先進諸国が発展してきた方法を途上国に伝授すべきだ」といった
かなり上から目線のスタンスが、まかり通って来たのは事実だと思う。
また、コストの削減と効率化の観点から理論化されたいわゆる
「標準化モデル(Standardised model)」として、
画一的な開発政策が地域や国の違いを考慮せずに押しつけられてきたという。


一つ例を挙げると、私がボランティアをしているチャリティーショップ(後日詳述)で
一緒に作業をしているおばあさんが、過去にご主人と一緒にウガンダで教育開発に
従事していたときのこと。
World Bankがその地域にやってきて、学校を建てた。
WBはアフリカは日差しが強く、なるべく外気の暑さを遮断する校舎が良いという基準で
学校を建てたので、できあがった校舎はほとんど窓の無い建物になった。
しかし、その地域はそこまで暑さが深刻だったわけでも無く、
むしろ、校舎内に全く日光が入らず、電気が無いのでとても勉強が出来ない環境だったそうだ。
「あの人達は現地の人の話も全く聞かず、彼らの持っているイメージで好き勝手やって
さっさといなくなってしまう人たちなのよ、そういう人にならないようにね」と
彼女は語気を強めて話していた。


・・・というわけで、そんな批判と反省から生まれてきたのが
いわゆる「参加型手法」なんだろうと私は勝手に理解している。


先進国が何かを一方的に教えるのではなくて、この地域において何が問題で、
どうすれば解決できるかを、その地域の人と一緒に考えよう。
それで、村の集会所に人々を集めて、一緒に村の地図を書いてみたり、
優先順位の高い問題についてゲームをしながら話し合ってたりする中で、
人々の自発的な「気づき」というやつを醸成していくこの手法。
日本のNPOでファシリテーターをやっている人たちの間でも
はやっているメソッドかと思うが、なにより参加して楽しい!ところがミソだと思う。


* * * *


でもこの手法は、時間がかかる。なにより一般化が難しい。というか、
もともと一般化を目的としていない。
その村の問題はその村特有の問題であって、隣村の問題ではない。
でも、一つ一つの村に回ってごまんとある問題を一つ一つ話し合っているうちに
日が暮れてしまう。。。。
なので、普遍的理論や一般化を志向する人々(文系では主に経済学者)には
少々むずむずするアプローチなんだろう。


では、主に経済学者が「援助のあり方」について、最近どういったアプローチをかけているかというと、
「Evidence Based Policy—根拠に基づいた政策」
つまり、政策を決定する際やどういった政策が効果があるかを議論するにあたって、
できるだけ科学的というか計量的な根拠(つまり、数字で示せる証拠だ)を重要視すべきだ、
ということを唱えている。


そして、その風潮の中で脚光を浴びているのが私が勉強している「インパクト評価」である。
この、日本人の間では開発学に関わっている人でもまだあまりなじみのない、
得体の知れない分野についての話は、また次回以降。









Thursday, 15 March 2012

本当の進歩というのは —開発学について(其の壱)

Es gibt weder große Entwicklungen noch wahre Fortschritte auf dieser Erde, 
solange noch ein unglückliches Kind auf ihr lebt. 
—Albert Einstein
偉大な発展や本当の進歩というのはこの地球にはない。
不幸な子供がこの地球上にいる限りは。
—アルバートアインシュタイン


今日は、私がイギリスの大学院で勉強している「開発学」について
あくまで主観的ではあるが自分の意見を書いてみようと思う。



開発学の精神を一言で表現するとすれば、このアインシュタインの言葉が、私にはしっくりくる。
(偉大な科学者である彼はもっと有名な言葉をたくさん残しているが、
個人的には、これもなかなか良い言葉だと思う)

「開発学を勉強しています」というと、
「都市開発ですか?」とか「土木関係の勉強ですか」とよくきかれる。
「うーん。それも含まれるかもしれませんが、それだけじゃありませんね」
というのがいつもの私の回答だ。
(余談だが、これは英語での「Development」を「開発」と最初に訳した方の問題であると思う。
なんで「発展」と訳さなかったのかなー。・・・それでもわかりにくいかな?)


で、解答はというと・・・?
かなりかなりざっくり言うと、開発学はこんな学問だと思っている。


1.問題解決型の実践的な学問である
2.様々な分野の知識を結集させる横断的な学問である
3.Pro-poor型 (弱い立場の人の味方)の学問である


以下、1つずつ解説。


<1.開発学の問題解決>
開発学がどんな問題を取り扱うかというと、大きく2つのテーマを扱っている。


A.グローバルレベルの問題(紛争問題、貿易問題、地球環境問題など)
B.発展途上国の問題(貧困、教育、人口問題、保健、ジェンダー問題など)


つまり、先進国の「国内問題」はおおよそ除外されるが、
先進国と途上国の両者が関わる国際問題は研究の対象になる。
※ただ、私が在籍しているイーストアングリア大学の国際開発学部には「メディアと開発」というコースがあって、
私の専攻じゃないので詳しくはわからないが、
「発展途上国の問題をどう報道するか」という視点を開発学に持ち込むのは、
かなり新鮮で面白いと思う!


同時に強調したいのは「実践的な学問」であるという点。
もちろん理論的な側面を勉強することもあるが、
それを勉強する目的は、あくまで現実に存在する問題を検証し理解するためであって、
宇宙の起源を知るとか、古代国家の宗教儀式を探るとか
新たな哲学とかを生み出すことを目的としているわけでは無い。
(これらの学問も、学問としては当然素晴らしいと思ってますよ!)


<2.開発学は横断的>
上記に述べた通り、開発学のカバーするテーマはかなり広いので、
人類の英知を結集して問題解決に当たらなければならない!
しかし、日本の大学ではそれぞれの問題が別々の学部で研究されていることが多い。


例えば、紛争問題を考えている人は政治学、教育問題なら教育学部、
貧困問題は経済学、温暖化問題を考える人は環境学部、
HIV/AIDSやマラリアの問題を考える人は医学部、といった感じだ。


でも、現実においてはそれらの問題が複雑に絡み合っている。


例えば、国家の経済的な豊かさと教育レベルの高さは切っても切れない関係があるし、
(チキンエッグ—卵が先か鶏が先かという議論も含めて)、
高度な医療技術があったとしても、電気も水道も道路もない地域では役に立たない。
その地域に道路を作るのは、もちろん、医者の仕事ではない。
いくら環境問題の原因が判明しても、資金が無ければ解決できない。
その資金はどうやって確保するかといえば、国家予算の配分を決めるのは政治家である。


というわけで、
せっかくなら一緒になって考えましょう、というのが開発学のアプローチだ。




・・・この図、作ってみて我ながら良い図だと思った。
特にこの「薔薇色」のところが・・・。
(もちろん、実際はこうはいかない。)


<3.Pro-poor型アプローチ>
最後に、開発学の根底にある理念のようなものが
「弱い立場におかれた人々を最優先に考えるべきだ」という考えだ。
ロバート・チェンバースという著名な開発学者の言葉では
「Putting the last first」=最後の人を一番に。


この「弱い立場におかれた人」とは、
貧困に苦しむ人々であったり、子どもであったり、女性であったり、少数民族であったり、
小作農であったり、難民であったり、エイズ患者であったり・・・。
環境問題という視点になれば、もっと広範な
自然やそこに生息する動物たちというところまで広がるかもしれない。


ビジネススクールでは、金持ちがもっと金持ちになるにはどうするかを教えるし、
国際関係学では、強国と弱国のパワーポリティクスが云々ということを考える。
私が学部時代に政治学を専攻してがっかりしたのはこの点だった。
当時、政治学とは、国家がいかに国民の幸福を実現するかを考える学問だと思っていた私は、
ヨーロッパ三十年戦争の変遷とか、アメリカの大統領選をどう分析するかとか、
明治時代の政党制の発展とか、そういうテーマ設定に疑問を覚えたものだ。


経済学者、教育学者、人類学者によって者の考え方やアプローチは様々だが、
この「putting the last first」の理念に反する議論は、今日の開発学ではほぼ見かけないと思う。
つまり「最大多数の最大幸福」(J.ステュアート・ミル)という理論によって
「国民の大多数が幸福になるから、貧しいけど少数派のあなたたちは我慢してね」という議論は、
開発業界では正当化され得ない。
むしろ、「貧しい人たちをより助けるために、一般人のあなたは少しくらい我慢しなさい」
という議論の方が支持される。


開発学については内外からいろんな批判があるが、
私は、開発学のこの側面が好きだ。


* * *


これ以上書くと長くなってしまうので、続きはまた回を改めて。
今回は開発学の素晴らしさ?について書いたつもりだが、
次回は「そうは問屋が卸しませんよ」というテーマで書く予定です。



Wednesday, 14 March 2012

Love is patient. 愛は寛容である。

今日の言葉は、世界一のベストセラーからの一節です。

* * * 

Love is patient, love is kind.
愛は寛容であり、愛は情け深い。

It does not envy, it does not boast, it is not proud.
愛は妬むことをしない、高ぶらない、誇らない。

It is not rude, it is not self-seeking.
不作法をしない、自分の利益を求めない。

It is not easily angered, it keeps no record of wrongs.
いらだたない、恨みを抱かない。

Love does not delight in evil but rejoices with the truth.
不義を喜ばず、心理を喜ぶ。

It always protects, always trusts, always hope, and always perseveres.
そして、全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てを耐える。

Love never fails.
愛はいつまでも絶えることがない。


新約聖書「コリント人への手紙第一」13章4—8節

* * * 


キリスト教徒でなくてもこの言葉を聞いたことがあるという人、
決して少なくないはず。
・・・なぜなら、
この言葉、日本で行われる西洋式ウェディングにおける
決まり文句のようなのです。
私の結婚式の時にも、神父さんがそのまーんま読み上げていた。
「これから二人で愛し合って、がんばってくださいね」
という、一種の訓示みたいなもの。


しかし、キリスト教のことを少しでも聞きかじったことのある人なら、
ここに出てくる「愛」という言葉が、
もっとスケールの大きな「神の慈愛」や「人類愛」について
説いたものであると言うことは、容易に察しがつくだろう。

それが、結婚式業界におけるコマーシャリズムと、
西洋っぽいロマンチックな挙式がしたい!という
新郎新婦のリクエストによって、
「男女間の愛」という狭義に矮小化されてしまうのは
非常に残念な話。


さて、そんな話はさておき、キリスト教では
「神が私たちを愛するのと同じように、互いを愛し合いなさい」と説いている。
つまり、先述の言葉も、神の慈愛について語ると同時に、
神の愛を実践するよう人々に呼びかける言葉と言うことになる。


(自分はキリスト教徒じゃ無いから関係ないと仰る方もいるでしょうが、
できれば話の流れに乗って聞いてください。ちなみに私も勉強中の身です)


でも、まさに言うは易し、行うは難し。
「愛」のある人生を送るのは、そう簡単じゃない。

私は、嫉妬深いし、疑り深いし、忍耐強くないし、
無意識のうちに舌打ちする癖がある(←昔、上司に指摘された・・・)
今でも、毎晩この言葉を思い出しては、
今日も自分はだめだったなー、自省を繰り返す日々を続けている。


それでも、私がこの言葉にこだわるのは、
「言葉と人との不思議な出会い」を感じたから。

日頃は平然と(いうかぼけーっと?)している私だけど、
昨年の暮れ頃は、かなりの劣等感と焦燥感に苛まれていた。
周囲を見れば自分より出来の良い人ばかり。
どうやったらもっと優秀な人間になれるのか?
どうすればもっと「上」に上り詰めることが出来るか?
自分の「キャリア」をこれから描くべきか?
私は留学前に結婚をしてきたけれど、この選択は本当に正しかったのか?
地位や名誉こそ、自分が本当に欲しいものなんじゃないのか?
そんなことを悶々と考えて眠れない夜があった。

翌日、
イギリス人の方の家で聖書の勉強会があった。
(毎月一回やっています:参加費無料!)
勉強会では、聖書のある一節を取り上げて
言葉の意味について一緒に考えたり、ディスカッションしたりする。

そこで、あの言葉に再会した。

読み始めてすぐに、「あれ、この言葉聞いたことがあるぞ」と気付き、
結婚式の時の言葉だと思い出した。
当時は「ふむふむ、有り難いお言葉だ」と素直に聞きつつも
特段気に留めることは無かった言葉だった。

それが、その日聞いたその言葉は、
周囲への嫉妬や利己心、自己顕示欲にまみれた
前夜のちっぽけな私の悩みに対して
ずばり語りかけてくるかのようだった。

しかも、全く新しい言葉ではなくて、
「結婚式も言ったでしょ、ほら思い出してごらん」
といったような、優しい語りかけだった。


Love is patient, love is kind.
愛は寛容であり、愛は情け深い。

It does not envy, it does not boast, it is not proud.
愛は妬むことをしない、高ぶらない、誇らない。

It always protects, always trusts, always hope, and always perseveres.
全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てを耐える。


勿論、これは偶然の話という人もいるだろう。
それでも、偶然にも意味を見い出せるのが
人間が授かった能力だと思いませんか。


* * *

それから、私の考え方は少し変わったと思う。
(すこし信仰に目覚めたというべきなのかも?)


うまく表現できないけど、
世間で「出来が良い」といわれる人間になるより、
もっと「良い人間」になりたいと純粋に思うようになったのだと思う。
私にとって「良い人間」とは、
あれがない、こうなりたいと無尽蔵に欲張るよりも、
家族や友人など周囲の人を大切にして
自分に与えられた恵みを受け入れ感謝できる人。
そして、授かった可能性を最大限に活かして生きる人。


* * *

ちなみに「言葉と人との出会い」という話は、
先日、友人のN子さんとランチをしているときに伺いました。
例え同じ言葉でも、なんとも思わずに過ぎ去ってしまう時もあれば、
ある時に出会い、それが自分にとって大きな意味を持ち、
いつまでも心に残ることがある。不思議ですよね。


そういった意味で、言葉との出会いは、
人と人との出会いに似ていると思う。


* * * 

今回は、かなり長い内容になってしまいました。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!