solange noch ein unglückliches Kind auf ihr lebt.
—Albert Einstein
偉大な発展や本当の進歩というのはこの地球にはない。不幸な子供がこの地球上にいる限りは。
—アルバートアインシュタイン
今日は、私がイギリスの大学院で勉強している「開発学」について
あくまで主観的ではあるが自分の意見を書いてみようと思う。
開発学の精神を一言で表現するとすれば、このアインシュタインの言葉が、私にはしっくりくる。
(偉大な科学者である彼はもっと有名な言葉をたくさん残しているが、
個人的には、これもなかなか良い言葉だと思う)
「開発学を勉強しています」というと、
「都市開発ですか?」とか「土木関係の勉強ですか」とよくきかれる。
「うーん。それも含まれるかもしれませんが、それだけじゃありませんね」
というのがいつもの私の回答だ。
(余談だが、これは英語での「Development」を「開発」と最初に訳した方の問題であると思う。
なんで「発展」と訳さなかったのかなー。・・・それでもわかりにくいかな?)
で、解答はというと・・・?
かなりかなりざっくり言うと、開発学はこんな学問だと思っている。
1.問題解決型の実践的な学問である
2.様々な分野の知識を結集させる横断的な学問である
3.Pro-poor型 (弱い立場の人の味方)の学問である
以下、1つずつ解説。
<1.開発学の問題解決>
開発学がどんな問題を取り扱うかというと、大きく2つのテーマを扱っている。
A.グローバルレベルの問題(紛争問題、貿易問題、地球環境問題など)
B.発展途上国の問題(貧困、教育、人口問題、保健、ジェンダー問題など)
つまり、先進国の「国内問題」はおおよそ除外されるが、
先進国と途上国の両者が関わる国際問題は研究の対象になる。
※ただ、私が在籍しているイーストアングリア大学の国際開発学部には「メディアと開発」というコースがあって、
私の専攻じゃないので詳しくはわからないが、
「発展途上国の問題をどう報道するか」という視点を開発学に持ち込むのは、
かなり新鮮で面白いと思う!
同時に強調したいのは「実践的な学問」であるという点。
もちろん理論的な側面を勉強することもあるが、
それを勉強する目的は、あくまで現実に存在する問題を検証し理解するためであって、
宇宙の起源を知るとか、古代国家の宗教儀式を探るとか
新たな哲学とかを生み出すことを目的としているわけでは無い。
(これらの学問も、学問としては当然素晴らしいと思ってますよ!)
<2.開発学は横断的>
上記に述べた通り、開発学のカバーするテーマはかなり広いので、
人類の英知を結集して問題解決に当たらなければならない!
しかし、日本の大学ではそれぞれの問題が別々の学部で研究されていることが多い。
例えば、紛争問題を考えている人は政治学、教育問題なら教育学部、
貧困問題は経済学、温暖化問題を考える人は環境学部、
HIV/AIDSやマラリアの問題を考える人は医学部、といった感じだ。
でも、現実においてはそれらの問題が複雑に絡み合っている。
例えば、国家の経済的な豊かさと教育レベルの高さは切っても切れない関係があるし、
(チキンエッグ—卵が先か鶏が先かという議論も含めて)、
高度な医療技術があったとしても、電気も水道も道路もない地域では役に立たない。
その地域に道路を作るのは、もちろん、医者の仕事ではない。
いくら環境問題の原因が判明しても、資金が無ければ解決できない。
その資金はどうやって確保するかといえば、国家予算の配分を決めるのは政治家である。
というわけで、
せっかくなら一緒になって考えましょう、というのが開発学のアプローチだ。
・・・この図、作ってみて我ながら良い図だと思った。
特にこの「薔薇色」のところが・・・。
(もちろん、実際はこうはいかない。)
<3.Pro-poor型アプローチ>
最後に、開発学の根底にある理念のようなものが
「弱い立場におかれた人々を最優先に考えるべきだ」という考えだ。
ロバート・チェンバースという著名な開発学者の言葉では
「Putting the last first」=最後の人を一番に。
この「弱い立場におかれた人」とは、
貧困に苦しむ人々であったり、子どもであったり、女性であったり、少数民族であったり、
小作農であったり、難民であったり、エイズ患者であったり・・・。
環境問題という視点になれば、もっと広範な
自然やそこに生息する動物たちというところまで広がるかもしれない。
ビジネススクールでは、金持ちがもっと金持ちになるにはどうするかを教えるし、
国際関係学では、強国と弱国のパワーポリティクスが云々ということを考える。
私が学部時代に政治学を専攻してがっかりしたのはこの点だった。
当時、政治学とは、国家がいかに国民の幸福を実現するかを考える学問だと思っていた私は、
ヨーロッパ三十年戦争の変遷とか、アメリカの大統領選をどう分析するかとか、
明治時代の政党制の発展とか、そういうテーマ設定に疑問を覚えたものだ。
経済学者、教育学者、人類学者によって者の考え方やアプローチは様々だが、
この「putting the last first」の理念に反する議論は、今日の開発学ではほぼ見かけないと思う。
つまり「最大多数の最大幸福」(J.ステュアート・ミル)という理論によって
「国民の大多数が幸福になるから、貧しいけど少数派のあなたたちは我慢してね」という議論は、
開発業界では正当化され得ない。
むしろ、「貧しい人たちをより助けるために、一般人のあなたは少しくらい我慢しなさい」
という議論の方が支持される。
開発学については内外からいろんな批判があるが、
私は、開発学のこの側面が好きだ。
* * *
これ以上書くと長くなってしまうので、続きはまた回を改めて。
今回は開発学の素晴らしさ?について書いたつもりだが、
次回は「そうは問屋が卸しませんよ」というテーマで書く予定です。
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